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2月2日配信 アドラー心理学書籍要約&解説 メルマガ  vol.21 「人生の意味の心理学」上巻 アルフレッド・アドラー(3)

  • 2017年02月03日


vol.21 「人生の意味の心理学」アルフレッド・アドラー (アルテ) 上巻(3)


「人生の意味の心理学」アルフレッド・アドラー (アルテ) 上巻(3)
【 第3章 】  劣等感

◎多くの神経症者は、劣っていると感じているかとたずねられても、
感じていない、と答えるだろう。
「反対だ。 私のまわりにいる人よりも優れている、と感じている」
とすら答える人があるだろう。
たずねる必要はない。人の行動を観察さえすればいいのである。
そうすれば、自分が重要であることを再確認するために用いている欺瞞を
明らかにする。
例えば、倣慢な人を見れば、その人は、こんなふうに感じている、と推測できる。
「他の人は私を見下しがちだ。私が重要な人であることを
見せなければならない」。
もしも話す時に身振りが大きければ、次のように感じていると推測できる。
「私の言葉は強調しなければ、重みを持たない」

◎他の人よりも優れているかのようにふるまうあらゆるすべての人の背後に、
隠すために特別の努力を要するような劣等感を疑うことができる。
背が低い人が、自分を大きく見せるために、つま先で歩くかのようである。

◎劣等感を持った人が、従順で、静かで、控えめで、
目立たない種類の人に見えることはない。劣等感は、無数の仕方で表現される。
動物園に足を踏み入れた三人の子どもたちの逸話によって、
このことを明らかにすることができる。
ライオンの檻の前に立った時に、彼らの一人は、母親のスカートの後ろに隠れて
「家に帰りたい」といった。
二人目の子どもは、その場に立っていたが、顔は非常に青ざめ、震えていた。
そして「少しも怖くなんかない」といった。
三人目の子どもはきっとライオンをにらんで母親にたずねた。
「唾を引っかけてもいい?」。
この三人の子どもたちは、実際には、怖かったのだが、自分のやり方で、
ライフスタイルに合致した仕方で、その感情を表現したのである。

(小倉による解説)
アドラー心理学の劣等感および勇気について学んだ時に、
一番驚いたのはこれ、
すなわち「劣等感の強い人は物静かではなく、強く振る舞う」ということだ。
優越コンプレックスのことである。
自分は弱い、できない、という自己信頼の低さ、
そして他者は私をバカにする、という他者信頼の低さ、
つまりは勇気のなさから、強いふりをするという安易で非建設的な道、
無益な人になる道を選んでいる、というわけである。
周囲にたくさんいる。
威張った人、強いふりをしている人、
そしてかつての私がそうであった。
今も少し残っているかもしれないけれど。

◎われわれは皆、ある程度は、劣等感を持っている。
向上したいと思う状況にいるからである。

◎もしもわれわれが勇気を保っているのなら、
この劣等感を唯一、直接的、現実的、そして満足のいく手段で、
即ち状況を改善することで、自分から取り除くことを始めるだろう。

(小倉による解説)
状況改善の努力をする。これこそが建設的な道。
勇気があればこのチャレンジを選ぶ。

◎勇気をくじかれ、現実的な努力をすれば状況を変えられる
と想像できない人を仮定してみよう。それでも、劣等感に耐えられないだろう。
それでも、劣等感を取り除こうと努めるだろう。
しかし、試みられる方法は、少しも彼〔女〕を前に進めない。
彼〔女〕の目標は、依然として「困難に負けないこと」であるが、
障害を克服する代わりに、優れていると〈感じる 〉ように自分を説得し、
さらには、強いることを試みるだろう。そうこうする間に劣等感は強くなる。
なぜなら、劣等感を生み出す状況は何も変わってはいないからである。
根本的な原因はそのままなのだから、
彼〔女〕が踏むあらゆるステップはさらに自己欺瞞へと導き、
すべての問題は、いよいよ、大きな緊急性を持って彼〔女〕に
のしかかることになるだろう。

◎弱いと感じたら、強いと感じられる状況を創り出す。
より強くなるように、より適切になるように、自分を訓練しない。
その代わりに、自分で見たところでは、より強く〈見える〉ように、
自分を訓練する。
自分を欺く努力は、部分的にしか成功しないだろう。
取りかかっている課題が手に負えないと感じたら、
家庭で専制君主であることで自分の重要性を再確認することを
試みるかもしれない。

◎劣等コンプレックスは、それに対して人がしかるべく適応していない、
あるいは、準備できていない問題を前にした時に現れる。
そして、それを解決できないという確信を強調する。

◎劣等コンプレックスは、常にストレスを創り出すので、
常に優越コンプレックスへと向かう補償的な動きが出てくるだろう。
しかし、それは問題の解決の方へは向けられない。
優越性への動きは、このように、人生の有用でない面へと向かうだろう。
本当の問題は棚上げされるか、排除される。
成功に向けて努力するというよりは、失敗を回避する方により関わり、
困難を前にして、ためらい、立ち尽くし、さらには
退却するという印象を与えるだろう。

◎いばりちらして支配するか、あるいは、泣き言をいって支配するかは、
受けた教育次第である。
自分の目的のためにもっとも有効だと思った方法を選ぶだろう。
時には、1つの方法に満足しなければ、別の方法を試みるだろう。
どちらの場合も目標は同じである。
即ち、状況を改善するために何もしないで優越感を得ることである。

◎例えば、勇気をくじかれ、泣くことで、
もっとも自分の思うとおりのことができると思う子どもは、泣き虫になるだろう。
泣き虫の子どもは、大人になれば、そのままうつ病者になる。

◎愛において、彼らは対等のパートナーではなく召使いを探す。
自分を支えてくれることをもっとも確信できる召使いは彼らの母親なのである。

◎われわれは、劣等感はそれ自体では異常ではない、といった。
それは人類のあらゆる進歩の原因である。
例えば、科学の進歩は、人が無知であることと、
将来のために備えることが必要であることを意識している時にだけ可能である。
それは人間の運命を改善し、宇宙についてもっと多くのことを知り、
宇宙をよりよく制御しようとする努力の結果である。
実際、私には、人間の文化のすべては劣等感に基づいていると思える。

(小倉による解説)
劣等感それ自体は異常ではない。
人間であるということは劣等感を持つことである。
それを非建設的に使い、無益な道、強いふりをしたり、
相手を支配する道具に使うことが問題なのだ。

◎一人の人、あるいは、人類の全体が、
それ以上の困難がないような位置に到達してしまったと想像してみよう。
このような状況においては、人生はきっとつまらないものになるだろう。
あらゆることが、予見され、あらゆることが前もって計算されるのである。
明日になっても予想もしなかったことが起こることはなく、
未来に期待できるものは何もない。
われわれの人生への関心は、もっぱらわれわれの不確実さからくるのである。
もしもわれわれが皆、あらゆることについて確信しているのなら、
知るべきことについて何もかも知っているのなら、
さらなる議論も発見もない。
科学は終わり、
われわれのまわりの宇宙は二度話された物語にすぎなくなるだろう。
われわれに目指すべき理想を与えてくれる芸術と宗教は、
もはや何の意味もなくなるだろう。

◎人生のチャレンジが無尽蔵であることは、われわれにとって幸運である。
人間の追求努力は決して終わることはなく、常に新しい問題を見出すか、
あるいは、創り出すことができ、
協力と貢献のための新しい機会を創り出すことができる。

(小倉による解説)
困難なこと、不確実なこと、万歳、である。
だから、人は進歩する。困難、ありがとう、である。

◎特別の思いやりを必要ともしなければ、要求もしない。
その代わりに、課題を、自分自身の必要だけでなく、共同体感覚に一致して、
勇気と自立心を持って解決し始める。

◎自分自身の優越性の目標を十分に叙述できる程度にまで
意識している人はいない。おそらく職業の目標なら知っているだろうが、
それは人の追求努力のわずかな部分でしかない。

◎もしも教師が持っている共同体感覚の程度が低ければ、
教師であることの彼〔女〕の優越性の目標は、
自分より劣った人の間で支配することかもしれない。
彼〔女〕は、自分よりも弱く経験の少ない人と一緒にいる時にだけ、
安全であると感じるかもしれない。
共同体感覚の程度の高い教師は生徒を対等と見なすだろう。
本当に人類の幸福に貢献したいのである。

(小倉による解説)
劣等感を補償するために勇気を持って一歩踏み出すことは重要だ。
ただし、共同体感覚に一致して。
つまり、自分だけ良ければいい、という一歩ではなく、
自分にとっても仲間にとってもいい一歩を踏み出すこと。
これが有益な人になる唯一の道である。

◎ひとたび優越性の目標が具体的なものにされると、
ライフスタイルにおいて誤りがなされることはない。
すべての行為はその目標と一貫したものだからである。
人の習慣と行動は具体的な目標を得るために適切なものであり、
あらゆる批判を超越している。
あらゆる問題行動のある子ども、神経症者、アルコール依存者、犯罪者、
性的倒錯者は、彼〔女〕が優越性の地位であると見なすものを達成するために
ふさわしい行動をしている。
彼〔女〕の行動をそれ自体として批判することは不可能である。
それは、このような目標を追求するならば示すべきまさにその行為である。

(小倉による解説)
人はそれぞれの私的論理によって、
他人には理解しがたいような優越目標を設定する。
マゾヒストは叩かれ傷つけられることで
「痛みに耐える聖なる人間」であろうという優越を設定する。
犯罪者は警察を愚弄することで優越を獲得する。
これらは他者にとって理解しがたいとしても
当人からすれば至極当然の優越追求であり、きわめて理にかなっているのだ。
もしも、行動を変えたければ、
目標として設定されている優越の種類を変えなくてはならない。
目指す究極目標を変えることが必要だ。
行動を抑制したり、罰したり、禁止しても何も変わらない。

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