作家、講演家、心理カウンセラー

小倉広オフィシャルWebサイト

小倉広事務所 HOME

1月23日配信 アドラー心理学書籍要約&解説 メルマガ  vol.19 「人生の意味の心理学」アルフレッド・アドラー (アルテ) 上巻(1) 

  • 2017年01月23日


vol.19 「人生の意味の心理学」アルフレッド・アドラー (アルテ) 上巻(1) 


「人生の意味の心理学」アルフレッド・アドラー (アルテ) 上巻(1)
【 第1章 】人生の意味

● 我々は現実をそれ自体として体験するのではなく、
解釈されたものとして体験するのである。
それゆえ、多かれ少なかれ未完成、不完全であり、
完全に正しいということはありえない。
意味の領域は誤りの領域である。

● 人は行動のすべてにおいて、
世界と自分自身についての暗黙の意味づけ
「私はこのようであり、宇宙はこのようである」という判断があり、
人生に与えられる意味がある。

● 我々は他者と結びついて生きている。
人間は個人としては弱く限界があるので、
一人では自分の目標を達成することはできない。
問題に一人で対処しようとすれば滅びてしまうだろう。
自分自身の幸福と人類の幸福のためにもっとも貢献するのは共同体感覚である。

● 個人心理学(アドラー心理学)は人間のすべての問題は、
この三つの問題、則ち、仕事(仕事の課題)、
対人関係(交友の課題)、性(愛の課題)に分けられる。
この三つの問題にどう反応するかによって、
各人は人生の意味についての個人的な解釈が明らかになる。

(小倉による解説)
人は現実を体験するのではなく、人それぞれの解釈や意味を体験する。
アドラー心理学の基本の一つ「認知論」です。
そして、その認知のパターンが「ライフスタイル」(性格)であり、
そのライフスタイルは人生の課題である三つのライフタスクを通じて明らかになる、
と説明されています。
また、そのライフスタイルが向かうべき方向性(有益な人、幸せになる人)として
「共同体感覚」が述べられています。

この短い文章の中に、
アドラー心理学の中核概念である
「認知論」「ライフスタイル」「共同体感覚」が
含まれているのは極めて興味深い。

● 性生活が不完全で、仕事で努力しない、
友人がほとんどいなくて仲間と接触することが苦痛と思うような人は
「人生は、危害に対してバリケードで自分を守り、
無傷で逃れることによって自分自身を守ることである」
という考えを表現している。

● 親密で協力に満ちた愛の関係を持っており、仕事は有益な成果へ結実し、
友人は多く人との結びつきが広く豊かな人は
「人生は仲間に関心を持ち、全体の一部であり、
人類の幸福に貢献することである」と人生を見ている。

● あらゆる誤り-神経症者、精神病者、犯罪者、アルコール依存者、
問題行動のある子供、自殺者、倒錯者、売春婦が誤りであるのは、
共同体感覚を欠いているからである。
彼らは問題が協力することによって解決できるとは信じていないのである。
彼らが人生に与える意味は私的な意味である。
自分が行ったことから益を受けるのは自分だけであると考え、
関心は自分にだけ向けられているのである。
彼らの成功の目標は単なる虚構の個人的な優越性であり、
勝利は自分自身に対してしか意味を持っていない。

● 例えば殺人者が武器を手にした時に自分に力があると感じた、
と告白したが自分のことしか眼中になかったのは明らかである。
他の人には、武器を所有することが優れた価値を持つとは考えられない。
真の意味は他者との交わりにおいてだけ可能である。
たった一人にしか意味がないような言葉は、実際には無意味である。

● もしも自分の意味が他者の人生への貢献にある
ということを認識しない時にはいつも誤るのである。

● 人生の意味は全体への貢献である、ということになる。
人生の課題に直面し成功する人は、あたかも人生の根本的な意味は、
他者への関心と協力であるということを

十分に自発的に認めているかのようにふるまう。
そして、困難に直面した時には、
それらを他者の幸福と一致した仕方で克服しようとする。

● 「でも個人はどうなるのだ。もしもいつも他者のことを考え、
他者の利益のために自分を捧げたら、
きっと自分の個性を損なうのではないか。
まず何よりも自分自身の利益を守ったり、
あるいは、自分自身の個性を強化することを学ぶべき人もいるのではないか」
私(アドラー)はこのような見方は間違いであり、
それが提示する問題は虚偽の問題である、と思う。

● もしもパートナーの人生を安楽にし、
豊かにすることに最善を尽くしているのであれば、
当然、われわれはできる限り、自分自身を最善のものにしようとするだろう。
自分の個性を、他者の人生に貢献するということをまったく意図することなく、
真空の中で発達させなければならないと考えるのであれば、
われわれはただ支配的で我慢できないものになるだろう。

(小倉による解説)
「個人はどうなるのだ?」に対するアドラーの結論
「間違いであり虚偽の問題である」は、アドラーらしい断言であると思う。
しかし、アドラーの真意はそこにないのではないか、
誤解を招く言葉ではないか、と小倉は思う。

アドラーの真意はおそらくここにある。この言葉の前後にある以下だ。

「真の意味は他者との交わりにおいてだけ可能である」
「他者の幸福と一致した仕方で克服しようとする」
「自分の個性を、他者の人生に貢献するということをまったく意図することなく、
真空の中で発達させなければならないと考えるのであれば、
支配的で我慢できないものになる」。

すなわち、こういうことではなかろうか。
共同体感覚を欠いた人=自分の利益しか考えていない人。
共同体感覚がある人=自分の問題解決を
常に他者の幸福と一致した仕方で克服しようとする人、
それがすなわちその人の個性であるのだ。

それは決して個人を疎かにしていることにはならない。
「情けは人のためならず」自分のためになる、ということではなかろうか。

ただし、本件については、私は別な視点を持つ。
自己受容(ありのままの自分を認める)ができていないうちに、
共同体感覚を発揮しようとすると、嘘になる。
自分の価値を認めずに他者の価値を尊重しようとしても嘘になる。

そうではなく、
自己受容(ありのままの不完全な自分を認める)を前提とした上で、
欠点もあるありのままの他者の価値を認める=共同体感覚の発揮が
必要ではないか。

本章では触れられていない
自己受容や勇気についてのアドラーのオピニオンとセットで考えないと、
本項単独で理解しようとするとアドラーの趣旨からずれていくだろう。

● 今日、われわれのまわりに祖先から受け取った遺産は
すべて人間の生活に貢献したものだけである。
耕された大地、道、建物、伝統、哲学、科学、芸術、技術。
これらはすべて人間の幸福に貢献した人から
われわれに受け継がれたものである。

● 協力しなかった人「自分は人生から何を得ることができるか」
としか訪ねなかった人(ゲッター)は何も後に残さなかった。
死んだというだけではない。
彼らの人生は不毛だった。
われわれの地球自身が彼らに次のように語りかけたかのようである。

「われわれはあなたを必要としない。
あなたたちは人生に向いていない。
立ち去れ! 死に失せろ! 消え去れ!」
協力以外のことを人生の意味とした人への最後の審判はこうだ。
「あなたには価値がない。誰もあなたを必要としていない。立ち去れ!」

● あらゆる宗教において、人類の救済への関心、
共同体感覚を増進する努力を見ることができる。
しかし、宗教はしばしば誤解されてきた。
個人心理学(アドラー心理学)は
科学的な方法で宗教と同じ結論に達しており、
それをなし遂げるために科学的な方法を提案している。

これは一歩前進である。
われわれは問題に違った角度からアプローチするが、意図は同じである。
他者への関心を増すことである。

(小倉による解説)
アドラーが心理学を宗教と同じ目的や意図であると
断じたのは素晴らしい英断ではないか、と思う。
この言葉に対して、従来からの医学に従事するもの、
精神分析学派の精神科医たちはアドラーを異端と決めつけた。
私はアドラーの意見こそが科学的であり、
時代を一世紀先駆けた勇気ある視点であると思う。

● 子供は5歳の終わりまでに統一され結晶化された行動のパターン、
問題や課題へのアプローチのスタイル
(ライフスタイル:一般的には性格と呼ばれるものに近い)を採用してきた。

*現代のアドラー心理学では5歳ではなく
10歳までに獲得すると考えを改めている(筆者注)

● 子供は、既に世界と自分自身から何を期待できるかについて、
永続する概念(ライフスタイル)を固定化している。
それ以降は、世界は確立された統覚(ライフスタイル)を通じて見られる。
経験は、それが受け容れられる間に解釈され、
その解釈は、常に子供が人生に与えてきたもともとの意味と一致している。

たとえ、この意味に重大な誤りがあったとしても、
また、われわれの問題や課題に対するわれわれの誤ったアプローチが、
絶え間ない不運と不幸を結果として生じることになったとしても、 われわれはすぐにそれを放棄するということはない。

● 稀なケースでは、
誤ったアプローチの結果が人に人生に与えた意味(ライフスタイル)を
見直すことを強いる。
その時は、自分自身でアプローチを調整することに成功するかもしれない。
しかし、何らかの社会的な圧力か、
あるいは、
古いアプローチを続けることは
自己破壊になるということを認識することなしには、
このステップを採ることは決してないだろう。

一般的にいって、個人のライフスタイルを変えるもっとも有効な方法は、
誰か心理学やこれらの意味の理解のトレーニングを受けた人の
助力を得ることである。

(小倉による解説)
ライフスタイルを変えるきっかけは
「社会的な圧力」「自己破壊になることの認識」のいずれかである、
とのアドラーの指摘は納得できるものだ。
私は後者により自分を変えてきたように思う。
アドラーの言葉ではないが、
人が本当に変わる時は「倒産」(経済的な死)「投獄」(社会的な死)
「大病」(医学的な死)を経験することでしかない、
との通説はまことに的を射ていると思う。

● ある人は、その不幸な経験にはもうこだわることはなく、
今後は、回避できる、と考える。
そして「このような不幸な状況を取り除くために努力し、
われわれの子どもたちが、よりよい状況にあるようにしなければならない」と
考えるだろう。

しかし、同じような経験をした人が、
「人生は不公平である。他の人は常にうまくやっている。
もしも世界が私をそんなふうに扱うのなら、
なぜ私が世界をそれ以上によく扱わなければならないのか」と
感じるかもしれない。

(中略)
第三の人は、こんなふうに思うかもしれない。
「私は不幸な子ども時代を送ったのだから、何をしても許されるべきだ」と。
いずれの場合も、彼〔女〕らが、
どんなふうに人生を意味づけしているかは、
行動に見てとることができるだろう。

そして、解釈を変更しない限り、行動を変えることは決してないだろう。

● 個人心理学が決定論から逸脱するのはここにおいてである。
いかなる経験も、それ自体では成功の原因でも失敗の原因でもない。
われわれは自分の経験によるショック--いわゆるトラウマ--に
苦しむのではなく、経験の中から目的に適うものを見つけ出す。
自分の経験によって決定されるのではなく、
経験に与える意味によって、自らを決定するのである。

そこで、特定の経験を将来の人生のための基礎と考える時、
おそらく、何らかの過ちをしているのである。
意味は状況によって決定されるのではない。
われわれが状況に与える意味によって、自らを決定するのである。

(小倉による解説)
「嫌われる勇気」において「明確にトラウマを否定します!」
という有名な一節は上記から引用されている。
しかし、これも言葉足らずな誤解ではなかろうか。
上記をきちんと意訳すると以下のようになるだろう。

「われわれは経験によるショック=トラウマに苦しむのではなく、
経験に自らが与える意味によって自らを決定する」。
つまり、経験そのものではなく自分で自分に与える意味により
人生が規定される、という意味だろう。

であるならば、意味に先行する経験は完全に影響因として
否定される者ではなく、部分的な影響因として規定される方が自然だろう。
つまり、経験によるショック=トラウマは、決定因ではなく影響因であり、
その影響により発生する意味こそが決定因である。
つまり「トラウマを否定する」のではなく
「トラウマを決定因として見ることを否定する」
「決定因を個々人が自らに意味づける意味である」
というのが正確な理解ではなかろうか。

● 幼児の時に身体の障害、病気で苦しんだ子どもたちが、このグループに属する。
このような子どもたちは多くの困難を経験し、
人生の意味は他者への貢献であると感じることを難しいと思う。
彼〔女〕らに近い人が、注意を自分の問題から逸らし、
他者に関心を持たせることができなければ、
自分のことにだけに心を奪われてしまうことになる

● 後になって、自分をまわりの人とくらべ勇気をくじかれるかもしれない。 また、今日の社会では、彼〔女〕らの劣等感が、
仲間が哀れんだり、醐ったり、
あるいは、避けることによって強められることもありうる。
これらはすべて、このような子どもたちが孤立し、
社会において有用な役割を果たす希望を失い、
自分が一個の人間として世界によって恥をかかされていると見なす状況である。

● どんな身体欠陥も、
歪んだライフスタイルを発達させることを人に強制しない。
腺が同じ影響をもたらす人を二人として見出すことはない。
実際、困難を克服する子どもたち、困難を克服する際に、
並外れた有用な能力を発達させる子どもたちをわれわれは
しばしば見出すのである。

(小倉による解説)
これも上記トラウマと同じ理解でいいだろう。
つまり、器官劣等生により勇気をくじかれるのではない。
器官劣等性を自分自身がどのように意味づけるかによって勇気をくじかれる。
つまり、周囲の人が器官劣等性をどのように意味づけ、
本人を哀れんだり避けたりすることの影響によって、
自分で自分自身をどのように意味づけるかが勇気くじきになりえる、
と理解すればいいだろう。

それは次の一文で明らかだ。
「どんな身体欠陥も、
歪んだライフスタイルを発達させることを人に強制しない」

● われわれの文化に大いに貢献した人の多くが、人生を始める時、
器官劣等性を持っていた。
彼〔女〕らは健康ではなく、早世した人もあった。
身体的にも環境的にも、困難と一生懸命闘った人が、
もっぱら進歩と発明をもたらしたのである。
闘いが彼〔女〕らを強くしたのであり、そういうことがなかった時よりも、
ずっと先まで進んで行ったのである。

● 器官劣等性や腺の分泌異常を持って人生を始めた子どもたちの大多数が、
正しい方向へとは訓練されていない。
彼〔女〕らの困難は理解されず、
もっぱら自分のことだけに関心を持つようになってきている。
幼い時に器官劣等性の重荷を背負った子どもたちの中に
多くの誤りが見られるのは、このためである。

● 人生の意味についてしばしば誤った解釈へと導くことになる第二の状況は、
甘やかされた子どもの状況である。
甘やかされた子どもは、自分の願いが法律になることを
期待するように育てられる。
彼〔女〕は、注目されるが、それに値するだけの働きをするわけではない。
そして通常、このよう人生の意味に注目されることを
生まれついての権利として要求するようになるだろう。

その結果、自分が注目の中心でなかったり、
他の人が彼〔女〕の感情に気を配ることを主な目的にしない時には、
いつも大いに当惑することになる。世界が自分を見捨てたと感じる。
与えることではなく、受けることの訓練を受けてきたのであり、
問題に対処する他のどんな方法も学んではこなかったのである。
他の人は、彼(彼女)のいいなりになってきたので、
自立心を失い、自分でできるということを知らないのである。
もっぱら自分自身に関心があり、協力することや、
その必要性を学ばなかった。

困難に直面すると、それに対処する方法を一つしか知らない。
他の人に要求するのである。注目される地位を回復することができるのなら、
他者に自分が特別の人であり、
自分が望むすべてのことを許されるべきであるということを
認めさせることができる、と信じている。
その時、そして、その時にだけ、自分の状況は改善すると思うのである。

● このような甘やかされた子どもたちが、大人になると、
おそらく、われわれの共同体において、もっとも危険な種類の人になるだろう。
自分には善意がある、と明言する人もあるかもしれない。
他の人を支配するための機会を得るために、
非常に「愛すべき」人になりさえするかもしれない。
しかし、普通の人のする仕事で、
普通の人のように協力することを求められると、協力することを拒む。

公然と反抗する人もいる。
もはや慣れ親しんできた快適な暖かさや黙従を見出せないと、裏切られた、
と感じるのである。
彼〔女〕らは、この共同体のすべての人は、自分の敵である、
と感じ、復讐する。
もしも、共同体が、彼〔女〕らの生き方に敵意を示せば(おそらくそうするだろう) 、
この敵意を自分だけがひどい目にあわせられたということの新たな証拠と見なす。
これが罰がまったく役に立たないということの理由である。

罰は「すべての人は私の敵である」という考えを確かめるだけである。
しかし、甘やかされた子どもが、ストライキを続けたり反抗しても、
あるいは、弱さや暴力によって支配しようとしても、
実際には、世界についての同じ誤った見方に基づいて行為しているのである。
二つの方法を別の時に試みる人も見ることがある。
そのような人は「人生とは一番になること、
もっとも重要であると認められること、
ほしいものをすべて手に入れることを意味する」と感じている。
そして、人生にこのような意味を与えている限りは、
彼〔女〕らが採用するすべての方法は誤りである。

● 誤りが容易になされる第三の状況は、無視された子どもの状況である。
このような子どもは、愛と協力が何かを知らない。
彼〔女〕は、これらの友好的な力を含まない人生の解釈を作り上げる。
彼〔女〕が人生の課題に直面する時、
それが困難なものであることをいかに過大評価し、
他者の援助と善意を受けて
それに対処する自分自身の能力を過小評価するかは容易に理解できる。

彼〔女〕は、社会が冷たく友好的ではないと見てきたし、
これからもずっとそのようであると思うだろう。
とりわけ、他者に有用なことをすることで、
愛と尊敬を得ることができるということを理解しないだろう。
そこで彼〔女〕は他者を疑い、自分自身を信頼できないだろう。

● 母親のもっとも重要な課題は、
子どもに信頼できる「他者」を最初に経験させることである。
母親は、後に、この信頼感を広げ、
ついには、子どもの環境のすべてを含むまでにしなければならない。

もしも、母親が、この最初の課題、つまり、
子どもの関心、愛情、協力を得ることに失敗すれば、
子どもが、共同体感覚、まわりの人と結びついているという感覚を
発達させることは非常に困難になるだろう。
誰もが他者に関心を持つ能力を持っている。
しかし、この能力は訓練され、鍛えられなければならない。
さもなければ、その発達は遅れるだろう。

(小倉による解説)
ここで初めて具体的な共同体感覚の醸成方法というソリューションが出てくる。
それはすなわち、母が親子間において共同体感覚(信頼)の見本を示し、
理解、体験させ、それを外へと拡げるという訓練でしか醸成されない、
という指摘である。
そうでなければ、共同体感覚の発達は非常に困難である、との指摘だ。
納得できるし興味深い。

● 信頼できる「他者」に会ったことがない子どもである。
人生における多くの失敗が、孤児であったり、非嫡出の子どもであり、
このような子どもを概して無視された子どもたちのカテゴリーに
入れなければならないということは、
われわれの文明についての悲しい評価である。

● これらの三つの状況、つまり器官劣等性、甘やかし、無視は、
人生の意味について誤った結論を引き出す大きな誘因になりうる。
これらの状況を経験した子どもたちは、
ほとんど常に課題へのアプローチの方法を変える時に援助が必要である。
人生がどういうものであるかについて、
よりよく理解する援助がされなければならない。

以上
「人生の意味の心理学」アルフレッド・アドラー (アルテ) 上巻(1)
【 第1章 】人生の意味

Top