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6月1日配信 アドラー心理学書籍要約&解説 メルマガ vol.8 『「現代アドラー心理学」上巻(8)第五章 社会的側面 後半

  • 2016年06月01日


vol.8 「現代アドラー心理学」上巻(8)第五章 社会的側面 後半

【 縦の関係と横の関係(原文では水平的見方対垂直的見方) 】

●正常な人と異常な人との違いを説明する場合、我々は手を水平に動かし
首を縦に振る。横の関係はイエス。縦の関係ノー、と。
アドラーの人間観は横の関係である。すべての人は平等に尊敬と尊重に
値すると見られている。

●劣等感に満ちている神経症の人は縦の関係で人を見る。
彼らは世界を良い人や悪い人で満ちていると見る。それゆえ彼らは常に
人生における自分の立ち位置について不安を抱いている。もし彼らが
横の関係を持つことができたら、自分が他の誰とも同等と感じるだろうし、
人生における地位を気にすることはないだろう。縦の関係にいる人は、
他者の注意を引くこと、支配すること、復讐をすること、無能さを
見せつけることに気を配っている
(ドライカースが言う不適切な行動の4つの目標)

(小倉解説)
アドラー自身がそうであったように、アドラー派の心理学者の
多くは「断言」する。上記を言葉通りに解釈すると縦の関係は「異常」である。
そして、縦の関係にいる異常な人は「自分の立ち位置や地位を気にする」。
そう考えると我々のほぼ全員が「異常」ということになる。現実的に
解釈するならば、そういう一面を誰もが持っている、という意味になるだろう。
アドラー心理学は他派と異なり「価値判断」を行う。
縦の関係より横の関係が望ましい。それを正常、異常と表現している、と
考えた方が理解しやすいだろう。

【 協力 】
●あなたが数人の人と軟派し絶海の孤島に漂着したとしよう。誰も一人では
生活できず他者に依存しなければならない。毎日10時間のきつい労働をして
貢献しなければならない。しかし、ある一人が薪を集めるにせよ、水を汲むにせよ
どんな仕事もしたがらなかったとしよう。その者は働くか死ぬか、しかない。
しかし、他者が自分を生きさせる義務を負っていると信じている
(助けてもらって当然と考える)人たちがこの世にはいっぱいいる。
彼らは協力しようとしないのである。そういう態度はどこに由来するのだろうか?
これは家庭環境、普通は母親との関係を意味する。

●ある母親は何もかも放り出し子どもが泣いているのをみるために走って行く。
彼女は抱き上げ、おむつを調べ、おっぱいを飲ませる。他の母親はその子を
しばらく泣かせっぱなしにし、最小限のチェックしかしない。
このように母親は泣いている子どもに違った反応をする。このアプローチは
子どもがどういう態度を発達させていくかに影響を与える。賢い母親は子どもが
スケジュールに適応するようにふるまう。子どもは午前4時におっぱいを
飲みたがるのと午後4時におっぱいを飲みたがるのとの違いを学ぶだろう。
子どもは理由もないのに泣かないよう学んでいくだろう。
このような基本的な態度は文字通り、ゆりかごの時から学んでいくのである。

(小倉解説)
日本人にはにわかに信じがたいことであるが、アドラー派の子育てでは、時に
小さな赤ちゃんが泣いていても泣き疲れるまで隣の部屋で放っておく、という
育て方を推奨する。(「勇気づけて躾ける」ルドルフ・ドライカース 参照)
まさにゆりかごの時から子どもは「自分自身で考え、選び取る
人生の成功法則のパターン」すなわちライフスタイル(性格)の形成を
行っている。それは母親を中心とした家族の関わりに大きな影響を受けるのだ。

●協力と競合のどちらが生きていく上で良いかについてアドラー派は端的に
「協力だ」と答える。しかし、このことは最善を尽くすべきではない、という
意味ではない。学校での成績、職業的キャリア、裕福になろうとしている
工場主などは公益に貢献している。協力と競合は必ずしも相克しない。
テニスの試合でどちらも勝とうと競争しているが、それでも競技をすることや
ルールに同意し、協力している。すべての進歩と有益な競争の底には協力が
宿っているのである。

【 建設的(有益)な行動と非建設的(無益)な行動 】

●アドラー派は建設的および非建設的という言葉を正誤、善悪よりも広い意味で使う。
どのような行動であればそれが(a)意図された目的を達成するかどうか
(b)その目的そのものが価値があるかどうか、を問うのである。

●ある母親が6歳から15歳までの6人の子どもをもち、一日平均二度
「自分の部屋をきれいにしなさい」と全員に言っている。単純計算をすると
一人に年間で700回、6人の子ども合計で4000回、最年長の子どもには
12年間で3万2000回も行ってきた。すべて足すと15万回以上
言ってきたことになる。こういうのが非建設的な行動である。母親はもし、
子どもの勝手にさせておけば家中がめちゃめちゃになると感じていて、自分の
行動が正しいと確証を持っている。我々からすると彼女の行動は非建設的である。
それでは目的を達成できないからである。この母親がアドラー派の
カウンセリングを受けて子どもたちに「論理的結末」を体験させることを
用いると彼らは自分で自分の部屋を管理し始めた。
これは有益な方法であったのだ。

●非建設的な行動という言葉はアドラー派においては、明らかに無益な目標
「麻薬を用いて自分を傷つけること」や「いじめなどで他者を傷つけること」
などに用いられている。それ以外にも我々はよく見られる非建設的な行動を
何千とあげることができる。たとえば、小言を言う、食べ過ぎる、喫煙する、
批判的である、不可能な目標を目指す、犯罪を犯す、無謀なことをする。
ある人たちはかなり高い割合で非建設的な行動をし、他の人たちは比較的
そういう行動が少ないことが分かるだろう。

(小倉解説)
建設的な行動と非建設的な行動の違いを説明する際に、多くの場合は
あからさまに勇気を欠いた共同体感覚の低い行動、すなわち、犯罪を犯す、
危険な行動をする、人を傷つける、麻薬を使う、などの行動を指す。
しかし、本項にあるような「小言を3万2千回言う」のように、一見すると
周囲を傷つけなさそうな、どこにでもよくある行動もその一つに数える。
すると、私たちの日常の行動のかなりの多くが「非建設的」であり、
それはまた、我々自身の多くが、多かれ少なかれ勇気を欠いている、
と見ることができる。

【 勇気 】

●アドラーは建設的目標へ向かう人の内面と、非建設的な目標へ向かう人の
内面をよくあらわす概念として「勇気」という概念をすすめる。

●勇気とは2つの要因からなる。一つは「活動」(目標に向かう運動の率)であり、
もう一つは「共同体感覚」である。したがって、共同体感覚があり、大いに
活動的な人は勇気のある人である。

(小倉解説) アドラー心理学における有名なマトリクスの一つに、行動(量)の高低と
共同体感覚の高低からなる4つの象限のマトリクスがある。両方高い人は
「社会的に有用な人」であり、すなわち勇気がある人である。そして、両方ない人は
「ゲッター」もしくは「回避的な人」であり、そして共同体感覚が低く、
行動が高い人は「支配的」な人である。また、共同体感覚が高く、行動が低い人は
現実的には存在しない、と考える。私は共同体感覚を高くしつつ行動的な社会的に
有用な人を目指したい。そのためには勇気を持つ、自分自身を
勇気づけることが必要であろう。

●「不完全である勇気を持て」というソフィー・ラザースフェルト
Sophie Lazarsfeldの有名な言葉がある。その基本的な考えはこうである。
もし人が集団のために行動しているならば、何かを失敗するより
むしろやってみようとしないことこそが、本当の失敗者になるということなのだ。

●勇気は結婚の場面でも見られる。人は主観的に相手を見上げて安心感を得たい
とか保護者を得たい、と考え結婚できるし、また、相手を見下げて、召使いとか
あごで使える人をほしいと思い結婚できる。しかし、どちらも不完全であり
勇気を欠いている。相手を見上げたり見下したり、相手よりも優れているとか
劣っているとか思い込むことはすべて勇気に欠けていることを示している。
浮気も勇気の欠如である。相手を全面的に信じることができないことを示している。
アドラーは「2は1よりも少ない」と謎めいたことを言った。

●勇気の欠如は犯罪者にも見られる。泥棒は自力で人生に向き合うことができず、
反社会的態度を持ち、警察はすべて賄賂を受け取ると思い、裁判官や
弁護士は自分の財産にだけ関心があると見る。このような常習犯は
この世界に属するという勇気を持てない者であり、他者が自分と同様
ひねくれていると思って満足している。

(小倉解説)
犯罪者は、裁判官や弁護士を身勝手な存在だと考え、他者が自分と同様
ひねくれていると思っている。すなわち勇気が欠けている。私は、政治や経済など
社会全般に対して、批判をし、社会を信頼しない態度を持ち続けている人もまた、
犯罪者ではないが勇気が欠けていると見ることができるのではないか、と考える。
あくまでも私見でしかないが。社会全般を敵もしくは自らと切り離して考え、
自らそれに対して責任を負ったり、できることをして貢献しようとせずに、
施政者や権力者の批判しかしない人は「(清濁が混在する)この世界に属する
という勇気を持てない」者である、と言えるのではなかろうか。
私はアドラーが言う通り(第一次世界大戦の時代においてさえ)
「中国人が殴られたことを我が痛みとする」感覚を持てるようになりたいと思う。
それは、一方的な他人ごと的批判をしないことであり、たとえわずかであっても
自らできることを探し、そして、未来を悲観せず楽観的に解決指向で
立ち向かっていくことではないかと考える。そのような人間で私はありたい。

【 責任 】
●アドラー心理学は個々人が共同体感覚において行動することに責任を
負っていると見る。無益な行動に由来したり、自分の責任を直視せず
勇気を欠いた行動をすることに由来する苦痛は誤った目標の当然の結果である。

「現代アドラー心理学」上巻 G.J..マナスター+R.J.コルシーニ 春秋社
(8)第五章 社会的側面 後半 より

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