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5月26日配信 アドラー心理学書籍要約&解説 メルマガ vol.7 『「現代アドラー心理学」上巻(7)第五章 社会的側面 前半

  • 2016年05月26日


vol.7 「現代アドラー心理学」上巻(7)第五章 社会的側面 前半

「現代アドラー心理学」上巻(7)第五章 社会的側面 前半

【 共同体感覚 】
●アドラー心理学におけるもっともユニークで価値のある概念は「共同体感覚」と
訳されるゲマインシャフツゲフュールという言葉であろう。

●第一次世界大戦終結以前にはアドラーは共同体感覚という概念を用いなかった。
1918年に初めてこの言葉を使ったが、それは「拡大傾向、攻撃動因、権力欲を
限定する生得的な抑止力」としてであった。その後1928年以降アドラーはこれを
認知的機能として見ていた。意識的に発達させうる生得的な素質 aptitude として
である。このようにして、共同体感覚は個人の成長努力のための社会的方向に
基づいて、他者や自分自身による理解と訓練を通して意識的に発達させられうる
潜在力ないし素質になったのである。アドラーは言っている。
「共同体感覚は先天的なものではないが、意識的に発達させられるべき
生得的潜在力である」

●アドラーは共同体感覚を同一化および感情移入になぞらえ「共同体感覚は他者の
目をもって見ること、他者の耳をもって聞くこと、他者の心をもって感じること」
と言った。また以下も言っている。「共同体感覚は何らかの現在の共同体や社会の
問題ではない。反対に、完全を求める最適の目標は全人類の理想的社会を代表する
ような目標でなければならない。つまり進化の究極的成就である」「それは特に、
永遠の相の下に subspecieaeternitas持つ共同体への関心、感情を意味する。
それはもし人類が完成という目標に到達したのであれば考えることができるような
永遠のものとして考えられなければならない共同体のための努力を意味する」。

●ドライカースは述べた。「共同体感覚は単に一定の集団や階級に属している
という感情、あるいは全人類への善意などを意味するのではない。帰属感は
共同体感覚の一部である」と主張した。彼は書いている。「共同体感覚の理想的な
表現は協力を求める現在の要求と生のゲームをする能力、また自分が帰属する
集団が社会生活の完全な形に向かって進化するに際してそれを手助けする能力である」

●ハーサ・オーグラーは共同体感情 Community feeling という概念の別の意味を
強調しながら「アドラーはしばしば作られるような人間の群れなど欲していない。
彼が欲しているのは盲目的な服従ではなく、開眼した協力である。彼の理想は
自己犠牲ではなく、個人が自分と人類の益のために自分の能力を
自ら発達させることである」

●アドラーが意味する共同体感覚は社会という言葉が意味するよりも
幅の広いものである。それは共同体のみならず人生全体に関係している。
人間がこの宇宙で孤立した有機体として一人で立っているという恐れと対照的に、
自分を存在というまとまりの中の一部であると感じる感覚を意味する。
共同体感覚は理想的な完全という目標(すべての宗教や道徳が目指す目標)である。
共同体は万人の根本的関心だからである。それはまた人間の行動の理想的な
規範である。あらゆる逸脱を測るものとして役立つべきものである。

(小倉解説)
アドラー心理学の中核概念である共同体感覚について、各人各様の見解が
記述され立体的な理解が可能になっている。共同体感覚は「会社や組織への
滅私奉公」を求めるものではなく「個人の能力の開発発展」を求めるものである。
また「狭い組織や社会」ではなく「無限の広がりを持つ広い世界や宇宙や人生」
のことであり「今現在」ではなく「永遠」のものであり、「表層的現実的」ではなく
「究極的理想的」であることがわかる。

●アレンは以下のように言っている。「共同体感覚は『延長された自我』とも
呼びうるものを含んでいる。それを持っている人は自分を他の人間から
引き離すことは出来ないと感じる人であり、他者が成功したり喜んだり
することによって豊かにされると感じるし、彼らの悲しみや苦しみを分かち合う。
他方、共同体感覚の欠落は『延長されたエゴ』になりうる。そのような人は
孤独だと感じるし、あらゆる面で自分を脅かす多様な攻撃から自分の名声を
守るために孤独な戦士として戦っていなければならない。彼らは共同体感覚あるいは
ティリッヒが『部分になる勇気』と見なしたものを欠いているので、つねに
警戒態勢や臨戦態勢でいなければならないのである」

●ハインツ・アンスバッハーは簡明に「共同体感覚とは他者への関心を
意味するだけでなく、他者の関心への関心を意味する」と言う。
カザンは「思いやりとはある人が他者の成長と自己実現を助けていく過程である。
思いやりは人生に意味と秩序を与える。そういう思いやりが幅広く包括的で
あるとき、その人の人生には根本的な安定性があり、この世界で
『本来の場所に』いるのである」

●アドラー派は共同体感覚と精神的健康を同じものと見る。
共同体感覚は精神的健康の原因ではない。部分的説明、定義である。
どこに由来するのかを説明するものではなく、精神的健康とは何かを叙述する。

(小倉解説)
共同体感覚の有無による違いについての言及である。共同体感覚があると
「他者の成功、成長、自己実現を喜び助け」「他者の苦しみを分かち合い」
「他者の関心に関心を持ち」その結果「人生に意味と秩序を与えられ」
「根本的安定性がもたらされ」「本来の場所にいる」。逆に共同体感覚が
欠如すると「他者の成功、成長、自己実現を妬み」「他者の苦しみに鈍感であり」
その結果「人生における意味と秩序を失い」「根本的に安定せず」
「本来の場所にいない」。これは心の健康の原因ではなく一部であり
心の健康そのものである。

●我々は皆社会に所属し、その中での自分の場を見いだしたいと思う。
賢明な親はこのことを知っており、子どもたちが愛されているし、
望まれているということを子どもたちに知らせる。よい学校では
生徒たちは互いに支え合う。各自がそれぞれ羨んだり妬んだりしないで、
最大限に自分の可能性を延ばすことを欲するようになることである。
このことは、すべての人が、十分に所属していると感じたときに起こるのである。

●人間は単に他の人間を必要とするだけでなく、必要とされることを必要とする。
この所属感と自分が欲せられているという感じの欠如、つまり孤独であり、
拒絶され、孤立させられているという感じは、あらゆる感情のなかでもっとも鋭く、
そして破壊的なものである。

●郵便配達人の立場からすると、犬は彼を攻撃するがゆえに悪辣である。
だが犬の立場からすれば、犬はただ侵入者から自分の領域を守っているだけであり、
自分の方が攻撃されたと感じるのである。これは双方の無知ということの
すばらしい例である。つまり犬も配達人も相手を攻撃者であると見ているのである。
もし配達人が犬を蹴るならば、犬の仮説は確認される。
もし犬が配達人にかみつくならば、配達人の仮説が確認される。
いずれにしても相手が危険で攻撃的で敵対的なのである。

●人間は自分自身からさえ阻害されることもありうる。人々はもしたえず
批判ばかりされていると自分自身を好きになれなくなってしまう。
あまりに高すぎる期待を持っている親の子どもは自己疎外感に陥りやすい。
第一次世界大戦前の南部の黒人たちのように社会的汚名を着せられているような
集団は共通の劣等感を持ちやすい。そして、それは自己疎外へと導く。
アルコール中毒患者や同性愛者や薬物中毒者はしばしば自己疎外感を持っている。

●ある人々は犯罪だとか狂気などの無益な方向へ行ってしまうそれは
優越感を勝ち取るためのあるいは劣等感を避けるための間違った道である。
したがってそのような不適応な人々は、アドラー派によっては、病気ではなく
まちがっていると見られるのである。

●アドラー派的考えを適用するもっとも著名な精神病医ジョシュア・ピーラーは、
子どもたちにできる限り責任を委ねる。彼らに自分たちのふるまいの当然の
論理的な結果を体験させる。そして彼らに対して、彼らのために、できるだけ
わずかなことしかしない、という立場である。神経症の人、犯罪者は違った
タイプの人ではない。彼らは優越という共通の目標を達成しようとして無益な
方法を見つけてしまったということにいて、健常者たちと違うのである。
神経症の人も罪責感や英雄的受難やらの証拠によって、また、犯罪者も
世界に対する怒りをもって、社会的に誤った方向へ向かってしまったのである。

●彼らは利己的、ーつまり自分自身に過剰な関心を持っているーであり、
自らを他者から孤立させている。神経症において我々は常に個人的優越という
高値の目標に直面する。それはまっとうな量の共同体感覚が欠けていることが
理解される。個人的優越を求めて努力することも共同体感覚を発達させないことも、
共にあやまちである。それは二つのあやまちではなく一つの同じあやまちである。
すべての失敗者、神経症患者、精神病者、犯罪者、酔っ払い、問題児、自殺者、
変質者、売春婦が失敗者であるのは、彼らには共同体感覚が欠けているからである。

(小倉解説)
これらの叙述から2つのことがわかる。一つは共同体感覚の欠如した者が取る
非生産的・非建設的行動の例である。もう一つは、共同体感覚を醸成するために親、
教師、カウンセラーが行うべきことの例である。まず前者から見ていこう。
共同体感覚が欠如した者が取る非生産的行動の例として、神経症患者、精神病者、
犯罪者、酔っ払い、問題児、自殺者、変質者、売春婦、アルコール中毒患者、
同性愛者、薬物中毒者などがある。

共同体感覚を醸成するために親、教師、カウンセラーが取るべき行動としては、
「子どもたちが愛されているし、望まれているということを子どもたちに知らせる」
「生徒たちは互いに支え合う」体験をさせる。「自分たちは十分に所属している」と
感じさせる。「子どもたちにできる限り責任を委ねる。彼らに自分たちのふるまいの
当然の論理的な結果を体験させる。そして彼らに対して、彼らのために、
できるだけわずかなことしかしない」。まさにこれらの活動は「勇気づけ」
そのものである。また、やってはならない行動として、「たえず批判ばかりをしない」
「あまりに高すぎる期待を持たない」「世話を焼きすぎない」「甘やかさない」
「無視しない」「劣等感を生むような汚名を着せない」などがあげられるだろう。
これらはまさに「勇気くじきをしない」ことそのものである。共同体感覚の醸成とは
勇気づけそのものであり、共同体感覚を持ち行動しているということは
すなわち勇気がある、ということである。まさにアドラー心理学において
共同体感覚と勇気は両輪なのである。

「現代アドラー心理学」上巻 G.J..マナスター+R.J.コルシーニ 春秋社

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