作家、講演家、心理カウンセラー

小倉広オフィシャルWebサイト

小倉広事務所 HOME

4月28日配信 アドラー心理学書籍要約&解説 メルマガ vol.4 「現代アドラー心理学」上巻(4)第二章 歴史と現在の状況』

  • 2016年04月28日


vol.4 「現代アドラー心理学」上巻(4)第二章 歴史と現在の状況

「現代アドラー心理学」上巻 G.J..マナスター+R.J.コルシーニ 春秋社
(4)第二章 歴史と現在の状況

【 アドラーの生涯:生誕からフロイトとの出会い、決別まで 】

●心理学体系は創始者の人生哲学と不可分に結びついている。
彼が自分の体系を世間に提起するやいなや、それは同じような思考傾向の
人々に訴え、彼が以前に獲得した人生への態度のための科学的基礎を提供する

●アルフレート・アドラー(原文まま)は1870年2月7日に小市民的な
ユダヤ系の家庭に、6人兄弟(原文まま)の次男として生まれた。
アドラーの家はウィーン郊外のルードルフスハイム(後にウィーンに合併)
に住んでいた。アルフレートは病気がちの子どもであった。

●アドラーが子どもの時に病弱であったこと、3歳のときに弟が亡くなったことは、
彼に深甚なる影響を与えた。彼の初期の思い出には、病気や苦痛、墓場、
そして死が含まれていた。彼は後に、そのような思い出が他の多くの医者の間に
きわめてよく見られることを発見した。
(小倉解説)
アドラーが後に幼少期を振り返る中で「認知論」すなわち世界は
客観的物理的事実ではなく主観的なものであるとあり「自己決定性」として自ら
「ライフスタイル」や「プライベート・ロジック」を「目的論」をもって確立、
展開しているという一連の線を見いだしたことが伺いしれる。

●ニューヨーク・アルフレート・アドラー研究所副所長
アルフレッド・ファーラウとの1927年の会話
「私は死は間違いだと思います。個人が死ぬのは恐ろしい。人生は深淵だと感じます」
との問いに対して
「人生と折り合いなさい。深淵のなかにとどまりなさい。生きなさい!もし、
私に死という事実を変えることができるのならそうするでしょう。しかし、
どうすることもできないのだから、死に出会わない可能性を考えながら日々
憂鬱にすることもしないし、また今楽しむことができるものを逃すことに
よって悲惨なものにもしないのです」
(小倉解説)
このアドラーの言葉を読んだ時に、ラインホールドニーバーの「平静の祈り」を
思い出した人も多いのではなかろうか。この詩はアドラーの思想に極めて近いことが
改めてわかる。「神よ 願わくは我に 変えられることを変える勇気と 
変えられないことを受け容れる忍耐力と 両者の違いを理解する知恵を与えたまえ」

●たいていのユダヤ人は法律によって住む場所が制限され「彼ら自身の」地域で
伝統を守って生活していた。しかし、アドラーの両親が住んでいた地域は
ユダヤ人が住んでいた地域ではなく知的大都市(ウィーン)の郊外だった。

●小学校時代、アドラーは完全を求める努力を高めるために自分の肉体的不調と
闘い続け、自信がなく孤独だった。数学の成績が非常に悪く、彼の先生は
アドラーに学校をやめて靴屋になることをすすめさえした。しかし父親は
賛成せずアドラーは勉強しなければならなかった。そのうちに彼はクラスで
数学が一番できる生徒になった。「もし父親が忠告に従って私を靴屋にさせたならば
おそらくよい靴屋になっていただろう。しかし私は一生の間、数学の才能がないと
信じ込むことになったであろう」
(小倉解説)
このエピソードも象徴的である。アドラーの言う通り、もしもここで彼の父が
アドラーを靴屋にさせる決断をしたならば、アドラーは一生「数学の才能がない人間」
として確定してしまったことになる。アドラー心理学が考えるとおり、人間とは
運命を自分で決めていく領域がとても大きな生き物なのである。

●アドラーはウィーン大学で医学を学び、眼科学を専攻したが、内科医として開業した。
彼は学生時代社会主義運動において活動的であったがやがてこの活動に魅力を
感じなくなっていった。彼は「人にレッテルを貼る態度」や「集団への同一化により
人々を差別する態度」に嫌悪感を感じたようである。彼は社会主義運動の集会において
ロシア人の学生ライサと1897年に結婚した。
(小倉解説)
アドラーは当初、政治により世界を変えようとしたが、その後、子どもの教育により
世界を変えようと考えを改めた、という。その契機となったのが、集団の
イデオロギーや目的にあるのではなく、組織の雰囲気や価値観にあるところが
またアドラーらしいと感じた。

●1899年もしくは1900年にアドラーは初めてフロイトの講義を聞いた。
この二人の出会いと劇的な決別を語る際に、すでにアドラーがこの時点で
開業医として成功しており、また後に発表される「器官劣等性および心理的補償」
の構想や世界観を持ち、打ち立てていたことを心にとどめておくべきである。
アドラーはフロイトよりも13歳も若く、彼の年齢と創造性を尊敬していた。
そのため、フロイトと一緒のときアドラーは「フロイト派」の用語を用いた。
しかし彼の仕事は純粋な意味で「フロイト派」ではなかった。二人の自立的な思想の
持ち主は、しばらくの間一緒に並んで仕事をしたが、後に彼らの思想と理論が
はっきりと相容れなくなったとき、決別した。アドラーはきわめてしばしば
誤解されるようにフロイトの弟子ではなかったのである。
1902年にフロイト派アドラーを含む4人の学者を自分の家に招いた。
このグループは「心理学水曜会」して、そして後に「ウィーン心理学会」として
知られるようになる。フロイトとアドラーは長年にわたり交際したが、彼らの関係は
友好的とは言えなかった。

●1910年にアドラーはフロイトに推され「ウィーン精神分析学会」の会長に選ばれ
精神分析ジャーナル「ツェントラルブラット・フューア・プシヒョアナリーゼ」の
共同編集者、共同創始者となった。しかし、アドラーは集会や同誌において
摩擦や論争を提示し続けた。同グループが休会中の夏に最後の危機が訪れた。
フロイトは同誌の出版社に手紙を書き「もはやアドラーと一緒に続けることはできない。
二人のうちどちらかを選ばなければならない」と伝えた。アドラーは出版社が苦境から
逃れられるように自ら編集者の任およびウィーン精神分析学会の会長の役を辞した。
その後の最初の集会でフロイトが「アドラーのグループとフロイトのグループの両方の
メンバーになることはできない」と宣言したとき決裂は決定的となった。
もとのグループメンバーのうち10名ほどがアドラーの個人心理学会のメンバーになった。
(小倉解説)
私はフロイトの精神分析学に関しては素人同然だが、ネオ(新)フロイト派
と呼ばれる学派がアドラー心理学と極めて類似している「対人関係重視」の学説を
展開している、とのことである。アドラーが展開した「対人関係主体の理論」が
原因で袂を分かつ二人が、やがて同じ論調にたどりつくことになるのは、
なんとも皮肉なものであると感じる。

以上「現代アドラー心理学」上巻 G.J..マナスター+R.J.コルシーニ 春秋社 より

Top