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4月13日配信 アドラー心理学書籍要約&解説 メルマガ vol.2 『「現代アドラー心理学」上巻(2)第一章「序論」続き』

  • 2016年04月13日


vol.2「現代アドラー心理学」上巻(2)第一章「序論」続き

【目的論】
●アドラー心理学は個人をたえず努力の過程にあるものと見る。
我々はある人を理解できないとき「彼は何をしようとしているのか」と問う。
それは「彼の目標は何か」ということである。
「どこからと問うな、どこへと問え」
(小倉所感)
「個人をたえず努力の過程にあるものと見る」という一文が深い。
たとえば努力が足りず怠けているように見える人も精一杯努力していると見る。
怠け者に見える人は「努力しないことにより失敗しない」ことを目的として
精一杯なのかもしれない。もしくは「自分は自由気ままで普通ではない
特別な人間である」ことを証明するために怠けているのかもしれない。
第三者から見て「なぜそんなことをするの?」というような場合でも、
本人は無自覚に精一杯努力しているのだ。そう考えると人間はおかしく哀しい。
喜劇は悲劇だし、悲劇は喜劇だ。

●過去・現在・未来の間にはダイナミックな相互作用がある。
誰も過去の影響を否定できないし、現在の瞬間の重要性を否定出来ないし、
未来の力を否定できない。アドラー心理学は端的に、その人の未来の
目標について問うたとき一番よく予見しうると考える。
(小倉所感)
「過去は関係ない」「トラウマはない」という言葉は強く印象的だけれど、
厳密に言うと少しは関係ある。過去は影響因ではあるが決定因ではない。
最も大きな影響を与えるのは未来の目的だ。そんなニュアンスだろう。

【場の理論】

【社会志向性】
●他のすべてのパーソナリティー理論は善悪や道徳的見解にかかわることを
拒否し、客観的科学見解に固着する。それとは対照的にアドラー心理学は
人間の幸福や成功に介して強い見解を持ち、善は社会的統合や社会的関心、
共同体感覚、ゲマインシャフツゲフュール Gemeinschaftsgefuhl,
Social interest を中心概念にすえる。
(小倉所感)
「アドラー心理学は科学 Science ではない。善悪や道徳を語るのは宗教ではないか」
とアドラーは糾弾された。しかし、それでもアドラーは「共同体感覚」を
提唱し続けた。そのお陰で私たちは幸福や成功への道を知ることができるように
なった。この考え方はD.カーネギーらによる自己啓発の源流となっていった。

【 コモンセンス 】
●アドラーが講演した後ある人が「あなたの言ったことは常識にすぎない!」
と述べた。アドラーは「常識はいけないものなのか?」と言った。

●フロイト派やユング派の概念化は何世紀にもわたる生物学的遺伝と言うが、
アドラー派はそのすべてを空想的論理であり常識に反しており無益な思弁として
放り出す。そのような神話的なものを持ち出さずとも、記憶、自己理解などを
もとにもっと簡単に説明できる。アドラー心理学はコモンセンス(常識)の
心理学であり単純な言葉を用いる。それで最も複雑な問題を取り扱うことが
できるのだ。
(小倉所感)
だから私はアドラー心理学が好きだ。真実は常にシンプルだ。
フロイトやユングの心理学は屋上屋を重ねた複雑な形の建物に見える。
一方でアドラーはシンプルで無骨な真四角の建物のようだ。だから、何にでも
どんな場面にでも応用が利く。
一方、ユング、フロイト(エリック・バーンもそうだ)の理論は、新たな命題が
でる度に、別な理論(屋上屋)を付け加えて行っているように見える。
もっと単純に一本の線で説明できる。これがアドラー心理学の真骨頂であると
私は思う。

【ユニークさ】
●心理学は通常、3つの分野に分けられる
認知Cognition(思い、考え、知覚)
情性Affection(情緒、感情) 
意欲Conation(意志し、行動し、ふるまうこと)。
人は誰もが他の人と違ったやり方で考え、感じ、行動する。この3つの
ユニークな結びつきが各人をユニークな人間に作り上げる。これを
アドラー心理学ではライフスタイル(性格)と呼ぶ。

●アドラー派は知性、すなわち認知を第一と見る。「我々は自分が考えるところの
ものである」We are what we think.感情も行動も思考に仕える。
「始めに思考(認知)があった」と仮定する。その後に感情や行為が来たのである。

●フロイト派の同僚たちが無意識と呼ぶものは「苦痛を与えるものを避け、
快いものを得るためには、何をすべきかということ」
「何が正しくて、何が間違っているか」「我々はどんな風か、他の人々は
どんな風か」についての一般化したもの(人生についての一連の結論の集積)
であり、我々が私的論理 Private Logicと呼ぶものである。これらは本人の
中にあるが本人も気づいていない、意識していない、という意味においては
同意できる。しかし、それは認知でしかなく、決して神秘的で複雑な
無意識ではない。
(小倉所感)
私自身は思考が行動を規定し同時に行動が思考を規定する、相互依存関係にある、
と考えている。しかし「始めに思考あり」の場合の方が多いし、そう考えた方が
応用が利く。つまり建設的 Usefulであるように思う。私自身はこう思う。
「行動により思考を変える」方がたやすく早くできるが
インパクトは小さい初級編である。「思考により行動を変える」方が難しく
時間はかかるがインパクトは大きい上級者編である。
行動すると思考が変わるし、思考することで行動も変わる。
両方を同時に行うのが建設的ではないか。両者は不可分であり同時である。
東洋思想ではあるが、王陽明の陽明学にある知行合一、の方がしっくりくる。
ただし、アドラー心理学の考え方の方がシンプルでわかりやすく応用も利く。
そんな風に考えた。あくまでも私の考えだが。

【自己一貫性】
●アドラー派は人間を「常に一定の目標を達成しようと一貫した仕方で
動いている者」と見る。自我の分裂や葛藤などは信じない。
●ある人は葛藤を持ったことがないという意味で一貫している。他の人々は
決断できず悩むという意味において一貫している。ジムはある日には
ジャスミンと結婚したいと思い、ある日にはジルと結婚したいと思い、
一貫していないではないか、と思う。アドラー派の人はこう言う。
「君はとても一貫している。君は結婚したくないのだ。ゲームを楽しんで
いたいだけだ」。ある時は親切であるときは残酷な人は、親切と残酷という
パターンにおいて一貫している。

【活動性】
●二人の人がまったく同じ目標と同じ量のエネルギーを持っていて、
あらゆる面で同等としても、一方は勇気を持ち、活動的に不断に知的に
一貫して目標を追求するのに対して、他方の人は躊躇し、やり損ない、
尻込みしてしまうかもしれない。方向を定めた「活動」は人生における成功の
大前提である。
(小倉の所感)
本論に関連して別の知見を。1933年の「個人心理学ジャーナル」に掲載された
論文には活動性×共同体感覚の組み合わせによる4つの類型が述べられている。
共同体感覚高い×活動性高い=社会的に有用な人。
共同体感覚低い×活動性高い=支配的な人。
共同体感覚高い×活動性低い人=そんな人はいない。
共同体感覚低い×活動性低い=人間関係を回避する人、
もしくは、ゲッタータイプ(もらうことばかり考えて与えない人)。

そして、この文脈から考えると活動性は勇気により決められると
推測されるため、先の活動性を勇気と読み替えても成り立つだろう。

つまり、共同体感覚高い×勇気ある人=社会的に有用な人。
共同体感覚低い×勇気ある人=支配的な人。
共同体感覚高い×勇気ない人=そんな人はいない。
共同体感覚低い×勇気ない人=人間関係を回避する人、
もしくは、ゲッタータイプ。しかし、ここで一つ矛盾が生じる。
アドラーはこう述べている。「私に価値があると思えるのは、私の行動が
共同体にとって有益である時だけである」
「私は自分に価値があると思う時にだけ勇気を持てる」(Adler Speaks)。
つまりこの2つの文章を合体させると「人は共同体感覚に沿って行動する時
にだけ勇気を持てる」つまり、共同体感覚と勇気は相互依存関係にあり、
どちらもが原因であり結果であることとなる。そのため、先の4つの類型で
いうところの2つが成り立たなくなる。

つまり、共同体感覚低い×勇気ある人=支配的な人。
および、共同体感覚高い×勇気ない人。後者はありえない、となっているので
割愛すると、「支配的な人」という象限は論理矛盾する。
これをどう読み解くか。私はかつて支配的であったと自覚しているが、
勇気はあったりなかったりだった。勇気がある時には支配し、ない時には
支配もしないし、活動もしなかった。

つまり、共同体感覚が低い状態で活動すると勇気が不足していくため、
この状態(支配的な状態)は長期にわたって継続しない。
やがて、共同体感覚が低い×勇気がない人、すなわち回避的もしくは
ゲッターへと変わっていく。しかし、一時的には成立する。
こう考えられるのではないか。私は支配的であったがゆえに人間関係が
うまくいかず貢献感が薄れ、勇気をなくし、結果、うつ病になり、
人間関係を回避するようになった。つまり、勇気もなくなっていったと
自己解釈している。

以上「現代アドラー心理学」上巻 G.J..マナスター+R.J.コルシーニ 春秋社 より

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